中野市の概要(沿革)

公開日 2014年3月10日

更新日 2018年11月1日

 本市における歴史のあけぼのは、少なくとも約2万年前までさかのぼります。平成6(1994)年、高丘地区の沢田鍋土遺跡から、県内で最も古い段階のものと思われる石器群が発見されており、ナウマンゾウなどの大型動物を狩猟して暮らしていた旧石器時代の生活から本市の歴史は始まります。旧石器時代につづく、縄文、弥生、古墳時代と、先人の残した遺跡は、市内各所にみられます。平成26(2014)年には、弥生時代集落遺跡である柳沢遺跡の出土品が、国の重要文化財に指定されました。

 古代に入ると、中野牧、笠原牧が発達し、郷の形成を促進してきました。

 鎌倉時代には、中野氏、笠原氏が活躍しますが、高梨氏の北方進出により、時代は高梨氏に移ります。高梨氏は、館を構えて城下町を形成して栄え、現在の本市の基盤をつくりました。やがて、戦国時代に入り武田信玄の信濃進攻による、上杉謙信との攻防の渦に高梨氏も巻き込まれていくこととなります。また、豊田地域においては、信玄の越後進攻の前線地として、今も城跡として残る替佐城が築かれました。

 江戸時代に入ると、中野村には幕府の陣屋が置かれ、幕府領は次第に拡大されていき、江戸時代中期以後は、中野地域の大半が幕府領となりました。以降、政治、経済、文化、交通の中心となり、天領中野の名を高らしめてきました。また、豊田地域は、江戸時代を通じて飯山藩の領地となっており、新田開発や用水堰の開さくが盛んに行われ、今日の農業の基盤となりました。文化文政時代には、華やかな文化の花がひらき、この地方にも中央からの文化の流入が大きく浸透してきました。江戸から文人たちの来訪も多く、地元での地方文化を支えている人との交流により、文化が隆盛しました。

 明治に入って、伊那県の中野分局が中野村に置かれました。さらに明治3(1870)年には、伊那県から中野県が分かれて、中野村に県庁が置かれましたが、当時の政情不安と経済の混乱は、大規模な中野騒動を引き起こすこととなりました。この中野騒動で県庁が焼失したため、明治4(1871)年、中野県庁を長野村に移転して長野県と改称するという太政官布告が発せられ、県庁が移されました。

 このように北信州の中心として栄えてきたことは、人・物・情報を集め、豊かな自然ともあいまって、伝統や文化を育む風土を形成し、現在に至るまで、中山晋平や高野辰之など多くの文化人を輩出してきました。

 明治22(1889)年に町村制の施行により、町村合併が行われ、昭和29(1954)年には中野町を中心に、近隣8か村が合併して中野市となり、また、昭和31(1956)年には豊井村と永田村が合併し、豊田村が発足しました。そして、平成17(2005)年4月1日に、中野市と豊田村が合併し、新市「中野市」として新たな歩みを始めました。

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