中野市指定文化財【有形民俗文化財】

公開日 2014年2月14日

更新日 2022年12月26日

七ツ鉢

七ツ鉢
七ツ鉢の近くに建立された蚕神を祀る祠「豊蚕宮」
 
指定 市有形民俗文化財/1972年8月28日
所在地 中野市大字赤岩
所有者 高杜神社

赤岩地区の七ツ鉢は、直径2メートル以上の安山岩の巨岩で、地上に露出している岩上部の平らな面に、全部で11個の穴があいています。
七ツ鉢の周辺は扇平と呼ばれ、高社山から流れてくる沢水が集まる場所であり、江戸時代の頃から農地の開拓に適した場所として、地元では非常に大事にされてきました。この開拓の途中で後に「七ツ鉢」と呼ばれる大きな岩が掘り出され、以来、村の人たちはこの岩を神聖なものとして考えるようになりました。
なお、扇平の周辺では、縄文時代のものとされる石棒や石斧などの石器も開拓の際に見つかっています。

明治時代に入ると中野では養蚕業が盛んになり、赤岩をはじめ高社山麓一体が桑畑になりました。養蚕を生業とし豊蚕を願う人たちからは、「蚕神」を祀る神社の建設が強く望まれるようになり、1926年には三重県伊勢市にある豊受大神宮より豊受大神(食物・穀物を司る神)を勧請し、七ツ鉢の近くに豊蚕宮と呼ばれる蚕神の祠を建立しました。なお、七ツ鉢はその御神体とされ、注連縄が張られるようになりました。

養蚕が行われなくなった現在でも、赤岩区の高杜神社宮司により祭事が行われ、氏子として赤岩区の人たちが毎年秋に「七ツ鉢祭り」を行っています。
七ツ鉢は、赤岩地区の養蚕と信仰を語るうえで、欠くことのできない貴重な文化財です。

七瀬の五輪塔

七瀬の五輪塔の写真

 
指定 市有形民俗文化財/1983年4月28日
所在地 中野市大字七瀬
所有者 七瀬区

五輪塔は、下方から地輪・水輪・火輪・風輪・空輪の5部分からなっています。元来は密教の塔形ですが、のちには宗教をこえて供養塔または墓標として広く建てられるようになりました。塔が大型化して最盛期を迎えるのは、鎌倉時代中期といいます。

七瀬の五輪塔は高さが119センチメートルあり、中高地区では最大です。造立年代は不明ですが、1470年から1651年までの間に建てられたと考えられます。
この五輪塔にはさまざまな俗信があり、塔を削ってその石粉を飲むと病気に効くといわれ、削られた痕が残っています。また、縁切りの性質を持つともいわれ、嫁入り行列は離縁を恐れて堂前を通らなかったと伝えられています。

これらは地蔵尊にみられる性質で、かつてこの近くにあった地蔵尊を五輪塔に合祀したため、このような俗信が伝わったと考えられます。
五輪塔が地蔵の働きを兼ね備えることは、きわめて特異な例であり、民間信仰上大切な文化財と考えられます。

間山の双立道祖神像

間山の双立道祖神像の写真

 
指定 市有形民俗文化財/1987年6月3日
所在地 中野市大字間山
所有者 間山丸山組・岸梨組

間山の双立道祖神像は、間山地区の北部、字十二に祀られています。高さ55センチメートル、幅33センチメートルの安山岩に浮彫りされ、向かって右が盃を持つ男神で、左は女神が瓢箪を持ち、互いに肩を抱いている祝言像です。

道祖神は村(集落)の入口や三叉路や辻、集落の広場などに建てられ、村に侵入してくる疫病神・貧乏神・死神などの悪霊や邪鬼を防ぐ神として存在しています。
間山の双立道祖神像の造立年代は不明ですが、そばに安置されている1740年(元文5年)銘の庚申塔から、道祖神も同じころのものと推測されています。

釜上地蔵

釜上地蔵
縁日当日に配布されるお札
 
指定 市有形民俗文化財/2008年8月1日
所在地 中野市大字桜沢
所有者 桜沢区

総高105センチメートルの石造の地蔵尊で、正確な造立年代、趣意などは不明ですが、桜沢区に伝わる伝承などから、コレラなどの伝染病による犠牲者を供養するために祀った地蔵尊であると考えられます。

釜上地蔵尊の縁日は9月24日です。毎年この日は桜沢区や近隣の参詣者で賑わいます。
縁日の前夜、桜沢の当番地区(南沢、田端、中ノ沢、会下沢の四常会持ち回り※4年に1回)で、お寺さん(大熊区の龍水寺)に来てもらって法要をし、茶碗酒で御斎をします。
また、地蔵尊のお札を刷り、縁日当日桜沢区全戸と参詣者に配ります。お札は、お勝手の竈付近に貼っておきます。
縁日当日、当番地区各家では、米の粉でつくった団子を持ち寄り、参詣者に御供えとして配ります。
「この団子を食べると病気をしない」といわれています。

また、子どもの夜泣きや病気平癒の祈願、平癒お札参りの参詣者が、焙烙(土鍋の一種)で焼いたせんべいを供えるという習俗もあります。

北ムラのお地蔵さん

北ムラのお地蔵さん

 
指定 市有形民俗文化財/2008年8月1日
所在地 中野市大字上今井
所有者 個人

総高120センチメートルの石造の地蔵尊で、地元の人たちは、地蔵尊があるこの周辺の地区を「荒山」と呼んでおり、地蔵尊が「ムラの北にある」という意味から、「北ムラのお地蔵さん」と呼んでいます。(※ここでいう「ムラ」とは、旧豊田村の「村」ではなく、地元の人たちが「荒山」と呼んでいる地区を指します。)

1897年頃、県道の工事のため、現在地に移されたと伝えられています。
荒山は、千曲川に近い川辺の集落で、水難事故の多い地区でした。地蔵尊の背面に刻んである銘文から、江戸時代の1742年に発生した大洪水で、この荒山の通船の船着場付近に洪水による溺死者が漂着し、その犠牲者を弔うため、「袖山氏」という人物の発願によって造立された地蔵尊であることがわかります。

1742年の大洪水は、千曲川流域では「戌の満水」と呼ばれ、多数の犠牲者を出すとともに、家屋、田畑が流出するなど多大な被害をもたらしました。その被害の大きさは、各地に伝承や慰霊碑などで伝えられています。
「戌の満水」という歴史的事実を記録し、川辺に住む人たちが水除けの祈りをささげた地蔵尊は大変貴重であり、後世に歴史を伝える証言者となっています。

お問い合わせ

教育委員会事務局 生涯学習課 文化財係
TEL:0269-22-2111(424)

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