信州・中野 中山晋平記念館

中山晋平の紹介

公開日 2022年11月24日

更新日 2022年12月08日

作曲家 中山晋平

美しい自然が晋平メロディを育んだ

晋平全身

【山があり、川があり、やさしい土の香りがあった】

中山晋平は、1887年(明治20年)3月22日、長野県下高井郡新野村(現在中野市大字新野)に生まれた。季節ごとに表情を変える美しい自然の中で、晋平少年はのびやかに育っていった。

【抱月との運命的な出会いが晋平の人生を決めた】

1905年(明治38年)、ふるさとを後にして東京へ旅立った。島村抱月の書生となり、東京音楽学校予科に入学。1912年(明治45年)に卒業、1914年(大正3年)「カチューシャの唄」を作曲し、松井須磨子が歌い大ヒットした。

自然を愛し、大衆を愛した晋平のやさしさと温もりが新民謡の中ににじんでいる

晋平執筆中

【雨情とのめぐりあいが、新民謡への出発点となった】

晋平は、5歳年上の詩人・野口雨情と出会い、雨情の新しい童謡・民謡の創作に対する情熱に刺激を受けた。

【全国各地で口ずさまれる晋平の新民謡のメロディ】

新民謡の作曲活動は、1923年(大正12年)の「須坂小唄」に端を発したが、昭和になると全国各地から作曲依頼が急増した。ふるさとのために作った昭和2年の「中野小唄」もその一つであった。

不思議だなぁ。子どもの心に帰れるリズムがある、歌がある。

晋平と梶子

【ゆたかな個性と愛情が子どもの心を熱くつつんだ】

鈴木三重吉が主宰した児童雑誌「赤い鳥」が創刊され、北原白秋や西條八十ら時代の文壇人がこぞってこれに参加した。晋平は、「小学女性」や「金の船」などに数多くの童謡曲を発表していた。雑誌「金の星」に「證城寺の狸囃子」、雑誌「コドモノクニ」には「あの町この町」「毬と殿様」などを発表した。

【永遠に歌い継がれる日本人の心のメロディ】

1952年(昭和27年)12月30日、65年の生涯を終えるまで、晋平は歌謡曲・童謡・新民謡・社歌・校歌などさまざまな分野の名作を残した。そして、北原白秋・西條八十・野口雨情など、時代を画した詩人たちと共に作り上げた日本人の心の歌といえる名曲の数々は、今なお人々に愛され、口ずさまれている。

中山晋平 年譜

年譜
和暦 西暦 事柄
明治20年 1887年 長野県下高井郡新野村に父實之助、母ぞうの四男として生まれる
明治36年 1903年 下高井郡瑞穂村柏尾尋常小学校の代用教員となる
明治37年 1904年 1月に下高井郡中野尋常小学校の代用教員、7月に同郡延徳尋常小学校の代用教員となる
明治38年 1905年 延徳尋常小学校の教職を辞し、島村抱月の書生となる
明治41年 1908年 東京音楽学校予科に入学
大正3年 1914年 作曲の第1号となる、「復活」の劇中歌「カチューシャの唄」を作曲
大正6年 1917年 江南敏子と結婚
大正9年 1920年 「金の船」に、野口雨情と童謡を掲載
大正10年 1921年 「船頭小唄」を出版
大正11年 1922年 「コドモノクニ」に童謡を掲載  浅草千束尋常小学校を退職し、作曲に専念
大正12年 1923年 新民謡第1号の「須坂小唄」を作曲
昭和2年 1927年 長野県下高井郡中野町の「中野小唄」を作曲
昭和3年 1928年 日本ビクター蓄音機株式会社と専属契約を結び、主な作品の吹き込みを行う
昭和4年 1929年 小説『東京行進曲』の映画化のため、主題歌を作曲
昭和7年 1932年 「丸の内音頭」をはじめ、音頭の作曲を始める
昭和11年 1936年 妻 敏子死去
昭和12年 1937年 喜代三(今村タネ)と結婚
昭和14年 1939年 日本ビクター株式会社の相談役を委嘱される。大日本音楽著作権協会を設立し監事となる
昭和23年 1948年 日本音楽著作権協会会長となる
昭和25年 1950年 日本民謡協会理事となる
昭和27年 1952年 12月30日、すい臓炎のため永眠 享年65歳

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