中野市指定文化財 【有形文化財】 1/2

公開日 2014年02月14日

最終更新日 2014年02月12日

柳沢遺跡出土品

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指定 重要文化財(国指定)/平成26年8月21日
所在地 中野市立博物館
所有者 中野市

 2006(平成18)年から2008(平成20)年の長野県埋蔵文化財センターによる発掘調査で出土した212点が重要文化財に指定されています。
 柳沢遺跡は縄文時代から中世に至る複合遺跡ですが、中心となるのは弥生時代中期後半から後期初頭です。
 東日本で初めて青銅器埋納杭が発見され、銅戈・銅鐸が収納された状態で出土しました。
 銅戈は九州型1口・近畿型7口で、銅戈の生産・流通を考えるうえで学術的価値が高いものです。
 また、銅鐸5口の一部の内面には舌の垂下による磨減痕があり、具体的な使用法が復元できるとされています。
 これら13点の青銅器は、その出土数においても全国有数の資料となっています。
 墓域からは礫床木棺墓が大型の1号墓を囲むように多数検出され、このうち5基から管玉が出土しました。特に1号墓には101点もの管玉が副葬され、社会構造を考究するうえで貴重です。
 壺に描かれたシカの線刻画は、同様のモチーフが青銅器の分布圏にみられることから、精神文化の共通性を示唆します。
 柳沢遺跡出土品は、日本列島における弥生文化の実態や地域間交流のあり方を考えるうえで極めて重要です。また、青銅器と同時性の明らかな土器・土製品、石器・石製品は青銅器祭祀を受け入れ定着させた中部高地における弥生文化の実態を示すものとして学術的価値が高いものです。

 

鉦鼓

 
指定 県宝/昭和52年11月17日
所在地 中野市立博物館
所有者 中野市

 鉦鼓は仏教の道具であり、勤行(仏さまの前でお経を読んだり、礼拝する)の際に叩いて音を出す道具です。
 この鉦鼓は大正5年(1916)11月20日に下高井郡夜間瀬村字堂平(下高井郡山ノ内町)で土屋重太郎氏が土中より発見しました。土屋氏は貴重なものだと考え、昭和7年(1932)に中野町立中野小学校に寄贈しました。昭和48年(1973)の中野小学校百周年記念に際して、中野市に移管されました。
 中心の円形敲打部(叩いて音を出す部分)は文様がなく、直径は21.3㎝です。敲打部を中心に断面かまぼこ形の細い隆線(子持圏線)が2本めぐっています。胴部の上方左右には形の良い鰭状の吊り手があり、直径約1㎝の穴があります。
 胴部には「観阿弥陀仏延慶元年11月1日」の銘文が刻まれており、鎌倉時代の末期の作になります。

 

弥生式土器

 
指定 市有形文化財/昭和47年7月27日
所在地 中野市立博物館
所有者 個人

 安源寺遺跡から出土した注口形土器と壺型土器の2つを弥生式土器として一括して指定しています。
 注口形土器は安源寺遺跡内にある個人宅の泉のほとりで発見されました。高さ5.5㎝、口径8.5㎝です。
 壺形土器は安源寺遺跡内の畑から発見されたもので、高さ12㎝、口径8㎝です。形や文様が伊勢湾沿岸地方の土器とよく似ています。
 今から約1,800年前に中野と伊勢湾の人々が交流していたことがうかがえます。

 

屋台(囃子を含む)

屋台

 

 

 

 

指定 市有形文化財/昭和51年4月1日
所在地 中野市大字上今井(上今井諏訪社)
所有者 上今井諏訪社氏子会

 屋台は構造的及び技術的に優れているとして、昭和51年4月に文化財に指定されました。屋台の造られた年代は明らかではありませんが、組物をおさめる箱書に安政5年当時の世話人の名前が記されています。構造は踊り場と楽屋に分かれ、踊り場は現在使われず飾松が置かれています。
 秋の祭典では、上今井諏訪社氏子会がお囃子を奉納しています。楽屋に上今井諏訪社氏子会の若者が9人同乗して、「神田まわり」「通りばやし」の2曲を演奏します。楽器は横笛2、三味線2、大太鼓1、小太鼓1、鼓大皮1、鼓小皮1が使われています。

 

社家片山文書

 
指定 市有形文化財/昭和53年3月23日
所在地 中野市大字安源寺
所有者 個人

 市の有形文化財に指定された文書は、巻物一巻と神道裁許状一通です。巻物一巻の中には、天正10年(1582)から17年までの高井郡庄内八幡宮神主に宛てた高梨頼近の宛行状、判物・安堵状が一通ずつ含まれています。
 上杉景勝の北信侵攻に従って中野に復帰した高梨頼親は、1582(天正10)年8月に安源寺(中野市)などに2,000貫文を与えられ、これをうけて頼親は庄内八幡宮(現小内八幡神社)へ社領10貫文を寄進し、翌年3月、厄除・祈祷札の領内配布を許しています。そして、1589(天正17)年10月には旧来通り社領100貫文を寄進しました。
 片山家の伝承によると、先祖は安源寺に来る前には六川(小布施町)で神主を務め、中野地域に復帰した高梨氏が安源寺へ呼び寄せたと伝えられています。庄内八幡宮は延喜式内社であったと伝えることから、当時から相当の規模を持った神社であったと推定され、文書に使用されている「如前々」「前々」「如先規」という文言は、頼親の寄進や許可が前例に従った処置であるものと考えられます。1603(慶長8)年6月の神道裁許状は、片山家所蔵の神道裁許状の中で最も古いものです。
 上杉景勝に仕えていた高梨頼親は、2,665石余を知行する大身の家臣でしたが、越後侍として把握されており、かつてに比べると在地(中野市)とのつながりは弱められていました。1597(慶長2)年には、景勝から勘気をこうむって、本庄顕長ら大身の家臣が一斉に改易される事件があり、頼親もこの時に改易されています。
 社家片山家文書と片山家の伝承は、一次資料が乏しい戦国時代末期の中野地域のようすを知るうえで貴重なものであるといえるでしょう。

 

中野小学校旧西校舎

 
指定 市有形文化財/昭和60年4月26日
所在地 中野市大字一本木
所有者 中野市

 この校舎の前身は、明治29年(1896)5月に中野尋常高等小学校として、現中野小学校敷地内に建設されました。その当時は、教室14・講堂体操場2棟・宿直室などで、洋風建築の立派な大建造物であり、北信地方では初めてのものでした。特に正面玄関は異色なもので、各隅の三本の洋式円柱を組合わせた柱の上の玄関二階は、ベランダ付きの明治中期の洋風校舎の代表的なものでした。ベランダの奥は応接室になっており、さらにその奥の室には大事なものが納められていました。その上の屋根の下は破風型になっていて、大きな星のマークがはめられていました。このベランダからは、中野町が見下ろされ、また延徳沖を一望のもとに収められ、遠く日本アルプスも視界に入る威風堂々たるものでした。
 その他、建築の特色としては、引き違い窓が用いられ、片廊下形式や、外壁の下見板が見られました。また講堂には天井に大きな洋灯が下がり、窓は上下に動くハイカラなものでした。木部仕上げにペンキを塗ったものも、当時の校舎建築の先端を行くもので、県下でも現存するものはあまりありません。
 その後、中野市では昭和54年(1979)7月に小学校整備計画審議会が設置されて、全市8校の全面改築が行われることになり、旧校舎はすべて取り壊されることが決定しましたが、市民は歴史的に意義の大きなこの西校舎を復元・保存することを決定し、玄関を中心に両側の4教室を昭和59年(1984)に現在の一本木公園内に移転復元しました。現在この建物は、中野小学校旧西校舎・信州中野銅石版画ミュージアムとして利用されています。

 

金井の延宝水論裁許状

 
指定 市有形文化財/昭和61年5月1日
所在地 中野市大字金井
所有者 金井区

 この史料は、表に裁許(判決)の内容に関わる絵図が描かれ、裏に幕府評定所によって下された裁許の文言(絵図裏書)が記されており、縦170㎝・横187㎝の大きなものです。評定所とは、三奉行(寺社奉行・町奉行・勘定奉行)を中心に構成されている幕府の最高司法機関のことであり、重大な事件や領主の支配管轄がまたがる訴訟などを取り扱っていました。
 1678(延宝6)年、9か村(中野村・松川村・一本木村・西条村・小田中村・更科村・吉田村・竹原村・若宮村)が取水している中野堰の取水口を、金井村が破壊して自村に水を引き込もうとしたため、9か村と金井村で水論となりました。支配管轄が異なるために評定所で扱うことになり、幕府は検使を派遣して現地で検分を行いました。この実地検分の結果、以前から金井村が9か村とともに取水していたという主張には根拠がないことが判明し、1679(延宝7)年11月12日に裁許絵図が作成されました。この裁許によって、中野村ほか7か村は中野堰取水口からの取水専用権を認められ、金井村は8か村の余水利用権と高井郡夜間瀬村崖下25口の湧水利用に限定されることになりました。
 江戸時代の村むらでは、用水や山林の用益権(利用する権利)は生活していくうえで非常に重要なものであり、用益権の確保は大きな関心事でした。そのため、17世紀後半から18世紀前半にかけての時期をピークに、全国各地で用益権をめぐる争いが起きています。これは、江戸時代に入ってからの新たな開発の進行にともなって、必要となる用水の確保や山林の利用をめぐる争いでした。このような多くの争論の解決過程を通じて、全国各地の用益権が江戸幕府によって確定されていきました。

 

ナウマン象の臼歯

 
指定 市有形文化財/昭和61年5月1日
所在地 中野市立博物館
所有者 中野市

 1971(昭和46)年に東山団地の宅地造成現場でナウマンゾウの臼歯の化石が2個発見されました。
 発見当時保存状態は悪く、アクリル樹脂を注入し、今後の研究計測等の取扱いに耐えるものとなりました。
 ナウマンゾウの臼歯の化石が発見された宅地造成現場からは、ヒメバラモミの球果も発見されました。ヒメバラモミは、現在八ヶ岳や南アルプスなどに自生する樹木で、ナウマンゾウが生存していた時代のこの地域の気候は、現在よりも寒冷であったと考えられます。

 

算額

 
指定 市有形文化財/昭和62年6月3日
所在地 中野市大字田上(長福寺)
所有者 宗教法人観音寺

 この算額は文化6年(1809)、計見村(現木島平村)の和算家野口湖竜保敞及び門人達が、観音寺(田上)に奉納したものです。観音寺はその後無住になったので、昭和22年(1947)以降は長福寺が経蔵に収めて管理しています。
 算額は問題が解けたことを神仏に感謝して、寺社に奉納した額のことです。あわせて和算家が和算を世に広めようという願いもありました。
 長福寺には2面あり同じ大きさで、1面の縦は58㎝、横は168㎝の木製です。四隅を金具で留めてあります。

 

捩文鏡

 
指定 市有形文化財/昭和63年6月1日
所在地 中野市更科
所有者 高井舟着神社

 この捩文鏡は1947(昭和22)年に東山区の姥懐山古墳から発見されました。
 古墳は鴨ヶ獄から伸びる標高差20mの尾根上にあり、径17mほどの円墳とされています。剣先が地表に露出していたことで発見され、鏡は並列した鉄剣3本の下に、文様のある面が上向きに置かれていました。ほかに管玉1点が出土しています。
 この鏡は青銅製で直径11.2㎝、縁部の厚さ0.3㎝、重量150gで、鏡を包んでいたと思われる布の後が鏡面に残っています。この種の鏡は4世紀ごろに国内で鋳造されたものです。鏡背の中央には紐(紐掛穴)があり、その周りに4個の乳(小突起)、その間に捩文を配し、そのまわりかを内から外へ珠文・櫛歯文・鋸歯文の文様が順に囲んでいます。中国製の鏡では動物文様として表現されますが、国産化の過程で元の形が失われ、風車のような抽象的な文様に変化したものが捩文です。国産品としては精良で今でも金属の輝きを保っています。

 

高札

 
指定 市有形文化財/昭和63年6月1日
所在地 中野市大字三ツ和
所有者 北大熊区

 江戸時代に幕府や藩などの領主層が、法令などを民衆に周知するために板札に墨書し、人目につきやすい場所へ掲示したものが高札です。江戸時代になると文書による支配が浸透し、領主から民衆への伝達、民衆から領主への上申は文書の作成を通じて行われるようになりました。
 高札が掲げられた高札場は、村によって管理され、その維持・補修は村の責任で行われました。高札は領主権威の象徴であるとともに、民衆の尊法精神をつちかう役割を果たしました。1873(明治6)年、高札による法令伝達方式が時代に合わなくなったことから、明治政府によって撤去が命ぜられ、高札はその役割を終えることになりました。
 北大熊区には現在、1711(正徳元)年から1868(慶応4)年にかけての9枚の高札が残されています。

 

天王神輿

 
指定 市有形文化財/平成11年9月28日
所在地 中野市諏訪町王日神社
所有者 東町区

 永正7年(1510)6月、高梨政盛が越後の国の内乱に守護代長尾為景に味方して出陣し、6月20日魚沼郡長森原にて戦勝し、大宝宮の神前で勝どきをあげて祝いました。その社の祭神が牛頭天王です。そこで、中野に凱旋してから、毎年6月20日に牛頭天王を勧請し、天王祭りを行ったのが中野の祇園祭の始まりだと伝えられています。
 その後、安政5年(1858)、ときの幕府代官柴田善一郎が、牛頭天王を勧請するために、飯山の佛師稲葉善作昌常に造らせ、さげ与えたのが天王神輿です。神輿は祭りの時以外は王日神社の宝蔵庫に保管されています。
 昭和9年(1934)に大修理が施されましたが、その後の使用によって傷みが激しかったため、平成10年(1934)に再度の修理を施し一新されました。

 

土偶

 
指定 市有形文化財/平成元年5月31日
所在地 中野市立博物館
所有者 中野市

 姥ヶ沢遺跡は大俣集落の東南方の旧千曲川にのぞむ河岸段丘の丘の上の小字姥ヶ沢にあります。中野市教育委員会は昭和57年(1982)4月6日から5月10日にわたり発掘調査を行いました。今からおよそ4,000年前の縄文中期の住居址1戸と祭祀址と推定される場所などと、土器・土製品(土偶のほか耳栓と耳飾など)・石器・石製品など多量を発掘しました。なお、時代はくだって今から1,500年前の古墳時代中期の住居址1戸と、土器類の出土もありました。
 有脚立体土偶は、接合によってほぼ完形の土偶となりました。この発掘調査地から28個体の土偶片が検出されました。
 この土偶は高さ19㎝、重量は485gの中形に属するもので、頭上は扁平の皿状を呈し、額の上には粘土紐でU字状の髪形を頭の横から後にかけて二条の粘土紐で結髪のようすを表現し、顔面は平板のほぼ円形ですが下方は少しこけています。
 両腕は水平に開き、両手の先までは12.5㎝、胸部には高さ8mmの乳房をつけ、胴は割合に細長で、下腹部はふくらんで妊娠の状態を表わしています。脚はきわめて短く、表側には沈線文と突刺文の文様をつけています。

 

小内八幡神社本殿

 
指定 市有形文化財/平成4年4月30日
所在地 中野市大字安源寺
所有者 小内八幡神社

 小内八幡神社は、式内小内神社の論社のうちのひとつで、応神天皇を祭神とします。1582(天正10)年に高梨頼親により社領が寄進され、その後、1665(寛文5)年に飯山藩主松平忠倶の寄進造営を得たとの伝承があります。
 現在の小内八幡神社本殿は、随神門をくぐって拝殿より入り、その奥に付属する覆屋内に鎮座しています。構造形式は三間社流造りで、向拝は幅広の1間とします。
 向拝の装飾、本蟇股内の彫刻も題材が多様で極めて装飾性が高く、当時の建築彫刻を知るうえで貴重なものといえます。

 

常楽寺文書

 
指定 市有形文化財/平成5年4月30日
所在地 中野市大字中野
所有者 常楽寺

 上杉景勝は越後の上杉謙信の養子で、弘治1年(1555)から元和9年(1623)の人で、戦国時代の武将です。父謙信が高梨氏を援助したり、栗和田の常楽寺再建の時に関係のあったことより、景勝は、常楽寺やそれと繋がりのある円慶寺に、次のような朱印状や寄進状を与えています。

 景勝の朱印状
 「常楽寺・安源寺、両寺共郡司不入たるべき者也。仍って件の如し。
  天正十一年十一月七日(景勝朱印)
  円慶寺」 

 景勝の寄進状
 「望みの旨に任せ常楽寺・安源寺之を進らせ置き候。修造勧行、怠慢有るべからざる者也。仍って件の如し。
  天正十一年十一月七日(景勝花押)
  円慶寺」

 朱印状の方は、役人であっても妄りに入って権力を行使してはいけないという、当寺の尊厳を認めさせたものです。寄進状は円慶寺の希望によって、両寺を預かりたいという願いを許して、円慶寺に寄進したものです。
 栗和田の円慶寺は、現在は常楽寺の末寺になっており、無住寺ですが、中野町誌によると、「天正十一年(1583)常楽寺中興の開祖天庵正清和尚の開創になり、隠居して当寺に住せり。…元和二年(1616)火災に罹り廃寺久しかりしが…天保十二年(1841)常楽寺十六世徹明堂字を建立して平僧寺となす…」とあります。常楽寺と円慶寺は、このように古くから繋がりがありました。

 

西条村新田開発免許状

西条村新田開発免許状(実物)

 
指定 市有形文化財/平成7年5月1日
所在地 大字西条
所有者 個人

 元和6年(1620)12月19日福島正則から(旧)間山村勘右衛門にあてた新田開発の免許状です。二つ折りした上質の和紙(縦16㎝、横45㎝)の表に右縦書で墨書されています。
 福島正則は元和5年(1619)、広島城修築違反を理由に、広島49万8千石から、4万5千石に減封され、北信州に封ぜられました。北信州に封ぜられた正則は精力的に領内の新田開発、治水工事を進めました。その一つが西条村の荒地(旧西間村)の開発であったことが、この古文書からわかります。村名は当初西条新田村とされましたが、後に西条村と間山村から一字ずつとって西間村とされました。近世前期における新田開発を示す資料として、貴重です。

 

白井家文書一括

 
指定 市有形文化財/平成17年1月28日
所在地 中野市中央二丁目
所有者 個人

 白井家は中野村草分けの家柄の一つで代々名主を務め、一時期中野代官所の郡中代も務めています。明治初期には中野町の戸長を務めました。屋号は井賀屋で、代々彦兵衛を襲名していました。
 白井家文書には、寛文5(1665)年検地帳写・名寄帳をはじめとする土地関係、年貢皆済勘定帳などの年貢関係、宗門人別改帳・村明細帳などの村方に関わるもの、領主からの触書やその請書、近世後期の「中野・松川村家並絵図」、質地や金子受取に関わる証文類などがあります。また、中野村や白井家の由緒に関わる史料として「中野古来覚書」・「白井氏記録」などがあり、近世・近代の中野村の歴史を知るうえで欠かすことのできない史料群です。
 以上のことから、白井家文書は中野市にとって極めて重要な史料群であるといえます。

 

常楽寺本堂の欄間

 
指定 市有形文化財/平成7年5月1日
所在地 中野市大字中野
所有者 宗教法人常楽寺

 常楽寺本堂の欄間は立川流門下の立川専四郎富種によって、安政5年(1858)に計画され、万延2年(1861)に取り付けられたもので、郭巨、孟宗、薫永、楊香、粟穂鶉、唐婦人、大舜、老莢子、剡子の彫刻があります。

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