中野市指定文化財 【有形文化財】 2/2

公開日 2014年02月14日

最終更新日 2014年02月12日

間長瀬新田年貢・諸役免許状

 
指定 市有形文化財/平成9年6月3日
所在地 中野市大字間長瀬
所有者 個人

 この書状は、幕府代官設楽長兵衛等が間長瀬新田村(現北間長瀬)の源右衛門に宛てたものです。(上質の和紙二つ折りにした縦17㎝、横47.5㎝の表に右縦書されています。)
 源右衛門は、慶長8年(1603)、間長瀬村(現北間長瀬)に、間山村(現間山)にある盛隆寺の隠居所(盛昌寺)が建立され、元和4年(1618)、間山村の源右衛門が移り住んで新田開発を始めたとされています。源右衛門が開発した新田は、寛永4年(1627)、一つの村として幕府から認知されました。
 内容は、幕府代官設楽長兵衛が、源右衛門によって間長瀬村内で行われた新田開発の功績を認め、源右衛門の屋敷や田の諸役、年貢を永代免除するというもので、江戸時代前期の中野地域における、新田開発の一端を知ることができる史料です。 

 

栗林村大久保新田開発免許状

 
指定 市有形文化財/平成11年5月7日
所在地 中野市大字栗林
所有者 個人

 万治元年(1658)12月5日、飯山藩粟津喜左衛門より栗林村与右衛門宛ての新田開発免許状です。(上質の和紙を二つ折りにした縦16㎝、横44㎝の表に右縦書きで墨書されています。)
 内容は、新田開発を命じられた与右衛門が、3年間の年貢・諸役を免除されたというものです。開発を命じた粟津喜左衛門は、飯山藩内の普請を担当しており、栗林村のほかに高井郡犬飼村(飯山市)の新田開発(福島新田)を手がけ、千曲川の治水を行ったとも伝えられています。

 

高井大富神社の俳額

 
指定 市有形文化財/平成11年9月28日
所在地 中野市大字大俣高井大富神社
所有者 大俣区

 俳額は、一般から俳句を公募し、一茶、完来、麦太の3人が選者をして秀句を選び、神社に奉納したものです。桐板二枚つなぎで縦58㎝、横178㎝、周囲に枠が取りつけられ、選者の句を含めて42句が掲載されています。掲額の年月日は文化5年(1808)9月吉日と記されています。
 選者のうち、完来は当時の江戸俳壇を代表する俳人であり、麦太は大坂俳壇の俳人です。
 一茶が選者をつとめた俳額は高井大富神社の俳額を含め、5点が発見されており、その中で高井大富神社の俳額が最も古いものになります。
 一茶が江戸から帰って、柏原に永住する文化9年(1812)以前から、一茶がこの地方で著名であったことが伺える資料です。

 

上今井諏訪社本殿

 
指定 市有形文化財/平成12年1月4日
所在地 中野市大字上今井
所有者 上今井諏訪社氏子総代

 神社の歴史は定かではありませんが、神官丸井家に伝わる神社明細帳には、「治承の頃木曽義仲公の造営に始まり延享四年再建、享和元年四月吉日吉田家より正一位の告文を受け、明治六年四月県第六十七区の郷社に列す。」と記されています。
 本殿は間口4.5尺、木造一間社流れ造りこけら葺きの社殿です。向拝は几帳面取りの角柱を立て、水引虹梁でつなぎ、唐獅子、象の木鼻を付けています。唐獅子・象の木鼻は、18世紀の中期の特徴を表しています。また、虹梁の絵様の若葉部分を「波しぶき」の彫刻としていますが、これも18世紀中期の流行です。

 

如法寺観音堂

 
指定 市指定有形文化財/平成14年3月1日
所在地 中野市大字中野
所有者 如法寺

 如法寺は真言宗智山派の寺院で、鴨が岳山麓の西向き緩斜面、東山公園内に立地しています。この寺院は、天長3年(826)に空海(諡号、弘法大師)が真如法親王を派遣し創立したという伝承があります。後世、荒廃した寺院は応永19年(1412)に中野城主高梨規政が堂宇を修理し再興しました。したがって、高梨規政開基とはこれ以降のことです。その後、堂宇は兵火等により消失、再建を繰り返したようです。
 現在の大悲閣観音堂は、参道奥の石段を登った高台に建立されています。この建物は、入母屋造り桟瓦葺き屋根の妻飾りを正面裏面に向け、正面部の一部が斜面から乗り出す舞台形式の外観が大きな特徴です。平面の形状は、桁行5間、梁行3間で、桁行正面2間は吹き放しの外陣となります。これは外陣空間を開放することで参拝者を招き入れ易くする効果をもたらす構造です。外陣への入室は懸崖造(懸造)のため側面に階段が取り付く、平入りとなります。四周の切目縁は四手先挿肘木で支え、擬宝珠高欄を廻らしています。
 身舎柱は上端粽付円柱を配し、桁行奥三間を内陣としています。内外陣境は格子戸はめ殺し、両脇一間に引き違い板戸とし、奥二間と裏面を板壁として、縁長押と内法長押を内陣四面に廻しています。天井は内外陣とも格天井で、格間の板張に彩色及び極彩色の観音絵図が描かれています。軒は二軒に繁垂木を掛け、板支輪に綾紋彫を施しています。側面に付く向拝は一間で、礎盤に几帳面取角柱を載せ海老虹梁で身舎と繋いでいます。虹梁形頭貫には正面に唐獅子、側面に象の木鼻が取り付き、中備には龍の彫刻を納めています。この向拝の象と龍の彫刻には越後の大工の手法が見られます。
 なお、鰐口には「嘉永四(1851)辛亥年高井郡中野如法寺十八世榮寛代」の銘があります。この建物の建築年代は、天保7年(1836)造営との伝承があり、また建築様式として虹梁絵様にその時代の特徴が読み取れます。

 

如法寺弘法堂

 
指定 市指定有形文化財/平成14年3月1日
所在地 中野市大字中野
所有者 如法寺

 如法寺弘法堂は弘法大師との縁が深い建物です。弘法大師は空海の諡号です。空海は平安時代初期の僧で、真言宗の開祖としてその高揚につとめました。如法寺に観音堂を建立した後、空海(弘法大師)が千手観音を安置したのがはじまりとされます。
 現在の弘法堂は、大悲閣観音堂に通ずる石段口に向かい左側奥(北西方向)に位置します。
 構造形式は、寄棟造り妻入りで、(茅葺きを覆う)銅板葺き、桁行4間、梁行3間で、正面に向拝1間が付きます。
 身舎は自然石(玉石)上に面取角柱を建て、地貫、内法長押を廻し、桁状台輪を載せる軸組としています。組物は柱上に舟肘木を載せ、内外陣境の台輪上には出三ッ斗と五ツ斗を重ねています。軒は一軒で、疎垂木として配置されています。
 室内は、桁行奥二間を内陣とし、前面二間とに分け内外陣境を仕切っています。境界には格子戸を入れず、両脇の引き違い板戸が開口部になります。外陣は、正面両脇と側面左右二間を引き違い戸としています。その外観は内陣のみ縁長押とし外陣とは区別しています。四周には奥行きの浅い切目縁を廻し、外陣組物には舟肘木を用いる簡素なものです。しかし、内外陣の格天井格間には極彩色の仏画が描かれる豪華なもので目を引きます。
 向拝は一間で、切石二段に几帳面取角柱を載せ、虹梁形頭貫と海老虹梁を共に根肘木二段で支えています。軒は一軒で、疎垂木です。身舎とは海老虹梁で繋ぎ、虹梁形頭貫には正面に拳鼻、側面に麒麟の木鼻が取り付きます。組物は出三ッ斗で、中備には本蟇股とし、内部に卍を組み込んでいます。この向拝の蟇股の形状は古式で、彫刻木鼻の麒麟は北信系の特色を色濃く反映しています。
 この建物は、建築様式より17世紀後期と推定され、如法寺の中でも古い御堂といえます。

 

中野町製糸場水車機械略図

 
指定 市指定有形文化財/平成14年3月1日
所在地 中野市立博物館
所有者 中野市

 絵師関長年(1813~1877)が描いた絵です。
 中野町は中野騒動(明治3年(1870)12月)などで荒廃した町を復興すべく、明治6年8月、官民一体となって、紡女100人取り(後に200人取り)の中野製糸場を、常楽寺(中野市松川)大門西に建設しました。器械製糸場としては長野県下で諏訪深山田製糸場(諏訪市)、上高井雁田製糸場(小布施町)についで3番目のものになります。しかし、その規模は当時県下第1位で、富岡(群馬県、300釜)には及びませんでしたが、二本松(福島県)と並ぶ、日本三大器械製糸場の1つに数えられていたといいます。
 作者の関長年は、松川村(中野市松川)の生まれで、20歳の時江戸に出て、細かい描写に優れた絵師である「大西椿年」の内弟子になりました。長年は、幕末の動乱期に中野に戻り、後進の指導に当たっています。
 この「信濃国高井郡中野町製糸場水車器械略図」(明治6年作)は長年の代表作といわれています。絵の遠景には箱山・我帰山、前景には見事な松と広場が描かれ、中心には、2棟の広い製糸場と人々の姿があります。紡女達は整然と、何やら楽しげに仕事をしています。冠木門の前広場は多くの人で賑わっており、繭を大八車で運び入れる人、馬で運ぶ人、背負う人などがいます。向こう鉢巻姿で天秤棒をかつぐ人、洋服の人を乗せる人力車夫、高島田を結い、話しながらゆったりと歩く女性もいます。
 この絵は、視覚を通して明治初年の製糸業、人々の服装などを頭の中に刻みこんでくれます。この絵は、中野絵画史のなかの代表作であり、また中野の歴史を示す資料の一つになっています。

 

高遠山古墳出土品

 
指定 県宝/平成19年5月1日
所在地 中野市立博物館
所有者 中野市

 高遠山古墳出土品は、平成9・11年(1997-1999)の中野市教育委員会による高遠山古墳の発掘調査で発見されたものです。
 高遠山古墳は中野扇状地とそれに続く延徳田圃の水田地帯を見渡せる比高25mほどの尾根上にあり、全長51m余りの前方後円墳です。後円部に並列する2基の埋葬施設があり、副葬品が埋葬当時のまま出土しました。また、埋葬施設の周辺からは土器が見つかっています。
 第1号棺は木棺を粘土で覆ったもので、鉄剣3・銅鏃4・鍬鋤先1・ヤリガンナ1・管玉4・ガラス玉5が納められていました。第2号棺は竪穴式石室に木棺を納め、石室と木棺の間を木炭で充填した特異なもので、鉄斧1・ヤリガンナ1・刀子1が出土しました。第1、2号棺とも棺材や遺体は腐朽し、まったく残っていませんでした。これらの出土品や埋葬施設の内容は、4世紀前半頃の特徴を示しています。
 高遠山古墳は、善光寺平で最も早く造られた前方後円墳の一つです。市内の七瀬双子塚古墳・金鎧山古墳・姥懐山古墳などに先立ち、この地域で最初に造られた前方後円墳です。
 また、古墳は後世に荒らされていることが多いのですが、この古墳では築造当時のまま副葬品が出土し、埋葬当初の様子が残されている点が希少です。
 前方後円墳は現在の奈良県地方を中心に3世紀頃から発達し、全国に広がりました。各地の勢力が近畿地方の政治勢力と関係を深め、首長の埋葬儀礼が統一されていったと考えられています。それが前方後円墳とそれに伴う儀礼です。

 

埋納銭及び埋納銭容器

 
指定 市指定有形文化財/平成14年3月1日
所在地 中野市立博物館ほか
所有者 中野市ほか

 中野市内では中世の埋納銭が15ヶ所から発見されています。一地域でこれほど集中することは少なく、全国的にも埋納銭の発見が多いまれな地域です。その発見の歴史は江戸時代の慶応年間から平成7年(1995)におよび、耕作中などに偶然発見されたものがほとんどです。平成元年・7年の西条・岩船遺跡の市教育委員会による発掘調査での相次ぐ発見は、出土状態が明確な資料として重要です。これによって、一差しの枚数や銭種別構成などが明らかになりました。
 埋納容器は珠洲焼の甕が多く、木箱に納められたものもあります。宋銭がほぼ八割を占め、唐・明銭もあります。容器や銭種から、これら多くの埋納時期は室町時代と推定されています。銭の埋納理由にはいくつかの説があります。備蓄したものが何らかの理由で取り出されずそのままになった、地鎮などの祭祀に伴って埋められたなどです。いずれにしても、大量の埋納銭はこの地域が政治経済的に大きな位置を占めていたことを思わせます。中野地域の室町時代の歴史には不明なことが多い中で、当時の流通や経済などを考える上でも重要なものです。

 

大草稲荷

 
指定 市有形文化財/平成15年3月31日
所在地 中野市大字江部
所有者 西江部区

 大草稲荷は西江部境内にあり、高さ266cmの角柱型の石碑で、五穀の神稲荷社と中野陣屋代官大草太郎右馬政郷の神霊を合祀したものです。
 西江部村は、寛保2年(1742)の大洪水によって多くの田畑が荒地と化し、文化12年(1815)、大草政郷が中野代官となり、村民の願いを聞き入れ、年貢を軽減したことを称え、その功績を後世に伝えるために建立しました。

 

綿貫家文書一括

 
指定 市有形文化財/平成16年3月31日
所在地 中野市立図書館
所有者 個人

 綿貫家文書には、「郡中入用割合帳」、「御陣屋系譜・御詰衆名前帳」、「牢屋絵図」などがあり、近世における中間支配機構や中野代官所の支配の実態を知ることができる史料です。また、中野町に関する史料が豊富に含まれているのも特徴です。
 綿貫家は、中野代官所の郡中代や中野村役人を勤めた家柄です。郡中代とは、わずかな人数で広域な幕府領を支配する代官所の手薄さを、村方から補完する役職であり、幕府法令の伝達や郡中入用の取りまとめ、牢舎の管理などを役職としていました。このような存在は、代官所と村方をつなぐ「中間支配機構」と呼ばれ、近世の支配機構を考えるうえで、重要な意味をもつとされています。

山田松斎資料一括

 
指定 市有形文化財/平成15年3月31日
所在地 中野市大字江部
管理者 中野市ほか

 山田松斎は、江戸時代の豪農・山田家の七代目の当主です。松斎は家業の傍ら、畔上聖誕らと「晩晴吟社」を起こし、頼山陽、亀田鵬斎などの文人と交流していました。また「大草稲荷」(西江部)の碑文を書き、幕府への献金や家塾を開くなどその活動範囲は広く、中野を中心とした北信地方の文化の向上、村人の教育に尽力しました。
 山田松斎資料一括は、松斎が生み出し、収集した七弦琴、書画、著書、紀記行、書状、版木などです。「七弦琴」は松斎作、「参宮紀行」は頼山陽、「宝善堂記行」は亀田鵬斎を訪ねたときの旅日記、「経典穀名考」、「譬稲性辨」は漢文体の優れた農書です。
 

小林家文書一括

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指定 市有形文化財/平成27年8月24日
所在地 中野市大字小田中
管理者 個人

 小林家文書は、かつては『信濃史料』『長野県史近世史料編』に翻刻・掲載され、最近では『小田中区史』編纂の際にも利用された文書群です。
 小林家は、江戸時代に高井郡小田中村下組(こだなかしもぐみ)の名主を務めることが多かったため、小田中村の組分けや水利関係等の村政に関わる資料が多く残されています。また、江戸時代初期の年貢割付状(ねんぐわりつけじょう)や年貢皆済目録(ねんぐかいさいもくろく)等の年貢関係資料もまとまって残されています。
 中野市域には、江戸時代初期の資料はあまり多く残されていませんが、小林家文書には年貢関係資料を中心に豊富に残されているため、当時の歴史を考える上で有用な資料であると考えられます。

尾張高梨家史料一括

尾張高梨家史料一括②尾張高梨家史料一括②尾張高梨家史料一括③尾張高梨家史料一括④

 
指定 市有形文化財/平成29年3月1日
所在地 中野市立博物館
管理者 個人

 戦国時代から江戸時代にかけて、全国で多くの領主が領地を離れましたが、その後も旧臣と連絡を取っていた記録が残されている場合があります。
  高梨氏は、戦国時代に中野を領有していた国人領主(国衆)です。その末裔のうちの一家は尾張藩に仕えて存続し、尾張高梨家と呼ばれるようになりました。尾張高梨家は、その後も江戸時代を通じて、中野周辺の高梨氏旧臣との関わりを持ち続けていました。
  尾張高梨家史料一括は、江戸時代前期に高梨氏旧臣の子孫畔上氏が高梨館跡を取得した際の記録と、中野を離れた尾張高梨家が江戸時代を通じて中野周辺の旧臣と交信を行っていたことを示す史料群です。この史料群の特徴として、些細な新年の挨拶などの記録が残っていることと、尾張藩に仕えていた内容よりも中野の旧臣との交信の記録が多いことがあげられます。

憲徳学校扁額

扁額

 
指定 市有形文化財/平成29年3月1日
所在地 若宮
管理者 若宮区

 扁額とは、建物の内外や門・鳥居などの高い位置に、その名称を記し掲げられた額や看板のことです。扁額には、指定文化財として指定されているものがあります。長野県内では、30点以上の扁額が市町村により指定されており、その多くは寺社、俳句、算術に関わるものです。
 憲徳学校扁額は、明治初期に現中野市の若宮地籍に存在した「憲徳学校」に掲げられた扁額です。大きさは、縦66.5cm、横208.5cm、厚さ2cmで、荻野省という署名があります。憲徳学校は、旧中野町に開校した研智学校の支校が、明治7(1874)年に名称を変えて独立したものです。その後、明治19(1886)年に隣村の間長瀬学校に統合されるまで存続しました。
 明治初期に設立された学校は、その後統合などを繰り返し、現在存在していない場合も数多く見られます。このような中で、憲徳学校扁額は中野市における明治初期の学校建設の証拠となる史料です。

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