中野小学校旧校舎の沿革・移転保存の歩み

公開日 2014年02月14日

最終更新日 2014年02月12日

中野小学校旧校舎の沿革

教育制度の変遷

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江戸時代も後半になると、貨幣経済が急速に発達し、庶民の間でも、読み・書き・そろばんの必要性が高まり、その教育機関として、塾や寺子屋が生まれました。
『長野県教育史』所収の「下高井郡家塾寺子屋取調表(明治19年調)」によると、中野市内には50余りの私塾・寺子屋が数えられています。
1872(明治5)年8月、寺子屋が担ってきた庶民教育は、「邑に不学の子なく家に不学の人なからしめん」ことを目的とした「学制」の発布により、文部省の管轄となりました。この「学制」における尋常小学校は、上下の二等に分けられていました。
1886(明治19)年、「小学校令」が公布され、小学校は尋常・高等各4か年となりました。尋常小学4年間を終了するまで、児童を就学させる義務があるとする義務教育制度が初めて定められました。
1907(明治40)年の「小学校令」改正では、義務教育期間が尋常小学6年に延長されました。
1941(昭和16)年、「国民学校令」が公布され、義務教育を8年間に延長し、国民学校の課程を初等科6年、高等科2年としました。
1947(昭和22)年、「教育基本法」・「学校教育法」が公布され、義務教育期間は、小学校6年間、中学校3年間の9年間となり、今日に至っています。

小学校の開校

幕末から明治初頭にかけて、中野地区には28の寺子屋があり独自の教育が行われていました。
1873(明治6)年、中野町・松川村・西条村・西間村・小田中村・一本木村・若宮村・金井村・竹原村の設立による研智学校が中野町の鈴泉寺に開校しました。また本校(中野町・松川村)のほかに、西条支校(西条村・西間村・小田中村、のちに脩正学校、就将学校)を西条村の阿弥陀寺に、若宮支校(一本木村・若宮村・金井村・竹原村、後に憲徳学校)を若宮村の正翁寺に開きました。
1882(明治15)年、研智学校は中野学校と改称し、校舎を旧中野陣屋跡に移しました。
1886(明治19)年4月、中野学校・就将学校(西条村・小田中村ほか)・憲徳学校(一本木村ほか)・愛育学校(岩舟村・吉田村ほか)が廃止され、中野町ほか5か村(西条村・小田中村・一本木村・岩船村・吉田村)は、新たに1町5か村組合立中野学校を設立しました。本校を旧中野陣屋跡に、分教場を鈴泉寺に置きました。1886(明治19)年の児童数は527人を数えています。
1889(明治22)年4月、町村制が実施され、中野町、西条村、一本木村の1町2か村が合併し新しい中野町として発足しました。これに併せて、組合立中野学校は中野尋常小学校(児童数528名)と改称、旧小田中村の児童は日野尋常小学校(日野村)へ、旧岩船・吉田村の児童は平野尋常小学校(平野村)へ通学することとなりました。

新築された小学校

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1892(明治25)年、中野尋常小学校は旧小田中村の児童を編入し、1896(明治29)年、校舎を新築移転しました。
現在の中野小学校旧校舎は、このとき中野尋常小学校新校舎として建築されたものです。
この校舎の特徴は正面の外観にあります。車寄せ玄関には、寄棟造りの屋根を載せ、2階にテラスを設けています。側柱の左右には角柱を主柱として、両脇に丸柱2本を立てています。柱は贅沢な装飾柱で梁を支えています。また、大屋根の中央部に取りつけられた千鳥破風の白い妻壁には、強烈な印象を与える「朱色のひとつ星」のマークがみられます。この星形は窓枠として、ガラスがはめ込まれていて、このはめ殺し窓の内側は屋根裏部屋となり、窓から採光されています。この部屋には、明治天皇・皇后の御真影(肖像画あるいは写真)がかけられ、特別な部屋でした。
この中野尋常小学校新校舎は、1910(明治43)年に中野尋常高等小学校、1941(昭和16)年に中野国民学校、1947(昭和22)年に中野小学校と校名が改称されるなか、80年余にわたって使用されてきました。また、1947(昭和22)年4月から1955(昭和30)年12月の間、中野中学校が併設されたこともありました。

中野小学校旧西校舎移転保存の歩み

1979(昭和54)年、中野市小学校整備計画審議会による、市内8小学校現地全面改築の答申を受け、翌年3月、旧校舎は昭和56年度で全て取り壊される事が決まりました。
これを知った市民の間から「中野市の文化遺産を取り壊すのは残念、なんとか保存の方法がないか」との声があがりました。1981(昭和56)年4月、「明治20年代の洋風建築様式で、貴重な文化財であるばかりでなく、先輩の教育に対する熱意のシンボルである。なんとか残してほしい」と、中野小学校出身者により、中野小学校西校舎を保存する会が結成され、1万人を超える署名を集めるなど保存運動が展開されました。
1982(昭和57)年2月には、中央バルコニーを中心に両側の1教室(2階を含め合わせて4教室)を一本木公園の一角に移転復元し、費用については、市と中野小学校西校舎を保存する会で折半することになりました。
正式に保存が決まった事により中野小学校西校舎を保存する会では募金集めに入りました。一方、地元のマスコミ関係も、この移転保存問題を大きく取りあげ、市民はもちろん県内外の大きな反響をよび、関心が高まりました。小学生の女の子がダルマ貯金箱を届けたり、ウイスキーボトルいっぱいの10円、5円、1円玉など、大人ばかりでなく子供たちへも募金の輪が広がりました。さらに、第二次大戦中疎開していた人たちなど県外の人たちからも善意の募金が届きました。
1982(昭和57)年4月に解体が始まり、1983(昭和58)年7月には復元工事に着工、1984(昭和59)年5月、中野市一本木公園の開園式にあわせて、中野小学校旧西校舎の完成式が行われました。

復元された校舎内部は、民俗資料の展示、教育関係の資料室、移転復元以前の教室をそのまま残した「教室」が設けられ、1985(昭和60)年には、市の有形文化財に指定されました。
そして1997(平成9)年に中野小学校旧校舎・信州中野銅石版画ミュージアムとして整備活用がはかられ、現在に至っています。
中野小学校旧西校舎の前庭には、中野中学校校歌碑とそのメロディーが流れる施設があり、他に菊池一雄作の2体のブロンズ像と移築復元を記念した記念碑が建てられ、訪れる人々を、時代を超え、遙かな記憶、浪漫へといざなっています。
また移築復元を記念した石碑には、次のような文が刻まれています。
「高社山を背景に建てられた新校舎は、雪深い奥信濃の風土にふさわしく、壮大であったという。以来、幾万の子供達を育み、多くの人材を輩出し、地域社会の文化の発展と、産業の振興に貢献してきた。今も、明治中期の洋風建築を代表する責重な建物として、地域のひとびとの心のよりどころとなっている。」

お問い合わせ

都市計画課 街路公園係
電話:0269-22-2111(270)