中野市指定文化財【史跡】

公開日 2014年2月14日

更新日 2019年12月12日

高梨氏館跡・高梨氏城跡

高梨氏館跡の土塁と堀
 
高梨氏館跡内部の復元庭園

高梨氏館跡から見た鴨ヶ嶽

高梨氏館跡
指定 史跡/2007年2月6日
所在地 中野市小舘
所有者 中野市
高梨氏城跡
指定 県史跡/1969年7月3日
所在地 中野市東山ほか
所有者 中野市ほか

高梨氏について

高梨氏は、平安末期に北信濃に出現した有力武士団と考えられており、室町期に集大成された「尊卑分脈」(姓氏調査の基本図書の一つ)によれば、平安中期の武将、清和源氏の頼季を始祖とする井上氏の氏族とされています。

高梨氏は、14世紀末には善光寺周辺を中心に本拠を置いたとみられますが、徐々に北進し、15世紀の中ごろに中野地方へ進出、中野に勢力を持っていた国人領主や地侍層(土豪)を制圧し、中野を本拠地とするようになったとされています。以後、越後の長尾氏(後の上杉氏)との関係を深め、中野市を中心とした周辺の地域を所領としていたと考えられます。

高梨氏は北信地方の有力な戦国国人領主であり、高梨氏が築いた高梨氏館跡や城跡は中部地方の中世史、戦国時代史を考えるうえで極めて重要なものです。

高梨氏館跡・高梨氏城跡

高梨氏館跡は、北信地方の有力国人領主高梨氏の戦国時代の方形館跡です。東西約130メートル、南北約100メートルの規模で、四方に土塁と堀に囲まれています。

1986年から1992年にかけて実施した史跡整備のための発掘調査によって、門跡1棟、礎石建物跡5棟、掘立柱建物跡7棟、枯山水様式の庭園跡等を検出し、状態はいずれも良好で、中世の庭園遺構は県内で唯一の事例です。

山城は館跡東側の山地の山頂部、標高約680メートルを中心に郭や空堀が認められ、館跡と一体のものと考えられています。

栗林遺跡

栗林遺跡の写真

 
指定  県史跡/1960年2月11日
所在地 中野市大字栗林
所有者 中野市ほか

この遺跡は千曲川の旧河床の河岸段丘上にあって、自然堤防上の徹高地に集落を営み、その東南側の低混地で水田農耕が行われていたものと考えられます。

昔から出土品が多く、「下高井郡誌」や「高丘村誌」に記載されていますが、昭和初期に神田五六氏によって採集された遺物が学会に発表されて「栗林式」土器が注目され、弥生時代中期(2,000年前)の中部高地における標式遺跡を代表するものとなり、1960年2月11日に県史跡に指定されました。

学術的発掘調査は1948年秋に京都大学考古学教室が行い、住居址2戸と土坑等を検出し、遺物は土器・石器・石製品等が出土しています。その後の調査は1987年まで7次に及んでいます。
8次にわたる発掘調査によって遺構は住居址、土坑墓、井戸址、敷石遺構、土坑を検出し、遺物は土器(壷・甕・高杯・甑・台付甕・壷のふた・注口土器)、石器(太形蛤刃石斧・扁平片刃石斧・磨石斧・打石斧・石包丁・磨石鏃・打石鏃・石戈片・石槌)、石製品(勾玉・管玉・丸玉)このほか異形土製品、土製紡錘車などが出土しています。

栗林遺跡は広範囲にわたっていますが、県史跡指定地は自然堤防にある北原地籍31,000平方メートルの濃密に分布する地帯です。弥生時代の県史跡指定はこの栗林遺跡のみで、出土遺物は中野市教育委員会と神田加祭登氏(下水内郡豊田村上今井)が保管しています。

中野県庁跡(中野陣屋跡)

中野県庁跡の写真

 
指定  県史跡/1964年11月26日
所在地 中野市中央2丁目
所有者 中野市ほか

幕府領(江戸幕府直轄領)は全国各地に配置されました。幕府は諸大名に対して圧倒的な規模の幕府領を経済的基盤として、全国支配を展開していました。これら幕府領の支配にあたったのは代官です。

1616年に北信地域の大半を領有していた松平忠輝が改易(江戸時代、武士の身分から除いて、領地・家屋敷を取り上げる刑)されたため、北信地域に初めて幕府領が成立し、高井郡中野村に陣屋が置かれました。中野陣屋は長野県内でも江戸時代を通じて長く設置されていた陣屋の1つで、時期によって差はありますが、おおよそ5~6万石の幕府領を支配していました。

中野陣屋は何度か火災にあって焼失していますが、1840年の大火のあと再建された陣屋の敷地は、東西48間(約87メートル)・南北36間(約65メートル)の規模でした。陣屋の建築費や修理費は、中野陣屋管轄下の村むらが負担しています。

1870年9月に東信・北信地域の旧幕府領を管轄する中野県が設置され、旧中野陣屋には県庁が置かれました。しかし、同年12月の中野騒動によって県庁は焼失したため、1871年6月に中野県は長野県と改称されてわずか11か月の中野県の歴史に幕がおろされ、翌月には県庁が水内郡善光寺町(長野市)に移転しました。

明治以後の中野県庁跡は研智学校・中野学校の敷地として利用され、1936年に下高井郡中野町役場(現在の建物)が建てられました。その後、1963年の中野市役所新庁舎完成にともなって公民館となり、中野市立図書館を経て、現在は中野陣屋・県庁記念館として利用されています。

替佐城跡

替佐城跡の写真1
 
替佐城跡の写真2
 
 
指定 市指定史跡/1982年11月1日
所在地 中野市大字豊津
所有者 中野市ほか

替佐城は対面城ともいい、千曲川左岸西方山地標高約460メートルの地点にあります。千曲川の右岸にある壁田城とともに、戦国時代に武田氏によって築城、あるいは修築され、上杉方である飯山城(飯山市)に備えた最前線の城であったと考えられています。

構造は、階段状に並んだ本郭・二の郭・三の郭の3つの郭が基本にあり、3つの郭は堀切で仕切られています。本郭は43メートル×27メートルで周囲は高さ約7~10メートルの切岸となっています。本郭・二の郭の北にある腰郭の規模は、幅約10メートル、長さ約200メートルであり、腰郭に続く北斜面には竪堀(たてぼり)が配置されています。大手の入口付近には、対面所と伝えられる場所が残され、その下方には市場と伝えられる場所があり、市神も残されています。

七瀬双子塚古墳

七瀬双子塚古墳の写真

 
指定 県史跡/1985年7月29日
所在地 中野市大字七瀬
所有者 七瀕区

中野扇状地の西縁を限る丘陵は、高丘・長丘丘陵と呼ばれ、今はまとめて西部丘陵といわれており、丘陵と扇端の間は、肥よくな水田地帯が広がります。その最高所、比高差100メートルの七瀬区南原に築かれたのが、前方後円墳の七瀬双子塚古墳です。
この後円部を、1921年七瀬青年会が発掘し、深さ1.8メートルの所から直刀2、鉄鏃39、長方板革綴単甲、土師器高杯、漆塗櫛などが出土しました。以来、千曲川右岸の善光寺平最北端の前方後円墳として注目され、1985年県史跡に指定されました。丘の前後を切断して墳丘をつくり、南北を軸に長さ61メートル、後円部径33メートル、高さ約4.5メートル、前方部はこれより1メートル程低く、前方部の幅は23メートルの規模です。

墳裾には葺石(ふきいし)がめぐり、間に円筒埴輪片が存在していました。住宅地や高速道路、新幹線などの開発により内部主体の構造が不明なのが惜しまれますが、発掘時の所見談や周囲の状況から粘土床の割竹形木棺による埋葬と考えられ、出土品や長嶺住宅団地造成に伴い発掘調査された七瀬3・5号古墳の成果からみて、5世紀前半までに築造された可能性が大きくなりました。

前記の古墳を含めて6~7基の古墳が、七瀬双子塚古墳に登る途中にあることなどから、中央政権との繋がりをもつ首長系列の古墳であると考えられています。
現在現存しているものは、北方の陪塚とみられる小さな古墳を2基のみとなっています。

蟹沢古墳

蟹沢古墳の写真

 
指定 市指定史跡/1979年10月23日
所在地 中野市大字大熊・桜沢
所有者 個人

延徳低湿地の東は、南北に連なる山から派出した尾根が幾筋かあり、徐々に低くなりながら平地に没入し、この間の緩傾斜地に集落が発達しています。
長野電鉄桜沢駅東方の尾根もその一つであって、比高差120メートルの鞍部に所在するのが蟹沢古墳です。

この古墳は、1979年、松沢芳宏氏によって発見されたもので、基底部の見方によって計測値に違いがみられますが、長さは45メートル前後で後方部高さ4.5メートル、1辺約25メートル、前方部幅約10メートル、高さ1メートル前後の規模を有する前方後円墳で軸を北西にとり、後方部を延徳中側に置いています。自然地形を加工した墳丘で、前方部が順次低くなって、境界が明らかでありませんが、従来からの見方より前方部を長くとる説が有力です。

この古墳の所在する尾根筋には、南下方に封土の流出した古墳があり、上方に3基の円墳があります。このうち桜沢4号墳を送電線鉄塔工事のため、1984年に発掘調査を実施しました。径20メートル、高さ西側から3メートルの円墳で葺石をもち、主体部は破壊されていましたが、小形石室の痕跡がありました。蟹沢古墳も発掘調査されていないので、今はこれらの古墳とどのような関係にあるのか不明ですが、桜沢の台地には弥生後期以来の遺跡が大きく広がっていて、地域の古墳が前方後円墳ではじまる例が特に東日本に多いと指摘されています。4世紀頃の築造と推定される本古墳は、この地域の階級社会成立の過程を知る上でも重要です。

林畔1号古墳

林畔1号古墳の写真

 
指 定 市指定史跡/1983年4月28日
所在地 中野市大字田麦
所有者 中野市

田麦区の西方の丘陵には規模の大きい古墳が並んで2基あり、南を林畔1号、北を同2号古墳と呼んでいます。

1号墳は、丘の高まりを利用して築かれ、高さ4メートル、南北23メートルの円墳で、円礫の葺石がみられます。
1945年、甘藷貯蔵穴を掘った時、東西2メートル、南北1メートル前後、高さ1メートル程の小口積みと平石で構築された石室が現われ、推定では上部構造は合掌形で内部は赤彩されていました。
出土遺物は、短剣、長剣、槍、蕨手形鉄器、刀子、鉄鏃、短甲(三角板鋲留)、轡(2連式銜)、砥石、土師器壺、ガラス製、滑石製の小玉、人骨などです。

2号古墳は1948年、京都大学が厚貝山の神古墳とともに発掘調査しました。外観は戴頭円錐形で、方墳ともみられる隅丸方形で、径約27メートル、高さは南側から2.5メートル、北側から4メートルで、葺石が認められています。
主体部は、割竹形木棺の置かれた粘土床で、長軸を南北に向け、長さ約3.8メートル、幅65センチメートル、深さ18センチメートルの大きさで、ここから、珠文鏡、直刀、刀子、鉄鏃、滑石製臼玉、ガラス小玉、竪櫛などが検出されました。

このように1号墳は石室をもち、2号墳は中野地方の特色とされる割竹形木棺の埋葬を採用していることは、被葬者の出自や築造された前後関係などの問題を提起しています。
なお1号墳の遺物は中野市博物館に、2号墳のものは京都大学に保管されています。

山の神古墳

山の神古墳の写真

 
指定 市指定史跡/1983年4月28日
所在地 中野市大字厚貝
所有者 個人

山の神古墳は、厚貝集落の西方、七瀬双子塚古墳や林畔1・2号古墳の築かれた丘陵の流れより、西側の丘上に所在します。北方にはまだ未調査の赤畑古墳が築かれています。
これらの古墳は、中野扇状地北部、高社山、志賀高原を望む景勝地に築かれており、被葬者の居住圏もこの扇状地にあると考えられます。山の神古墳は、丘頂部の北側を切断して墳形をととのえ、径32メートル、高さ4メートルの規模をもち、円墳としては直線的な部分がみられ、方墳説もあります。

墳裾には葺石があり、円筒埴輪片が確認されています。
内部主体は、地表下1.2メートルにあり、墳頂中央部に南北を軸とした混礫粘土床(割竹形木棺のあと)が存在し、規模は内法長さ約5.3メートル、幅60センチメートル、深さ24センチメートルで北側に平石がたてられていました。
遺物の位置は、北群と南群に分かれ、北群は北から鉄製の鏃頭、剣、滑石製臼玉、刀子と斧頭、ワラビ手状の利器、竪櫛、その南の床東側に剣、槍があり、ここの床西外側に剣、斧頭が置かれていました。
南群はこれより1.5メートル南に竪櫛、壮年の屈葬人骨、滑石製臼玉、剣が存在しました。

このように、同棺に併葬された例として注目され、後に調査された七瀬3・5号墳の追葬例と違った墓制であり、副葬品をみても長丘古墳群でも古い様相を示しています。
この古墳は1948年に京都大学によって調査され、出土遺物も同大学に保管されています。

建応寺跡

建応寺跡の写真

 
指定 市指定史跡/1984年5月29日
所在地 中野市大字間山ほか
所有者 個人

建応寺跡は間山地区から菅(山ノ内町)へ通じる菅峠の少し手前にあって、標高670~710メートルの谷を削って5段の平担地(7,000平方メートル)の境内をもつ大きな天台宗の寺でありましたが、川中島合戦の兵火で焼失したという伝承が残っています。

中野市教育委員会は第1次(1978年)、第2次(1979年)、第3次(1982年)に学術的発掘調査を実施し遺構及び遺物を検出しています。

第1号堂址は境内入口の右手にあって、間口7.8メートル、奥行11.2メートルの長方形で西向きの堂宇で、基壇をつくり、その上に大きな礎石を等間隔に並べていますが、この礎石の表面は焼け跡が残っています。この堂跡は中世初頭の頃のものと推定されています。遺物は御正体の銅製阿弥陀如来坐像、銅製観音菩薩坐像、神像片(頭部)、御正体鏡板片(多量)、焼銅塊、鉄釘、かすがい、古銭(元符通宝)、土師器(杯・灯明皿)、砥石片、石臼片等が発掘され、焼失した建物の炭や灰がたくさん出土しています。

第2・3号堂址は1号堂址の北側約17メートルのところにあって、前者は7.4メートルの方形、後者は4.2メートルの方形で西向きの堂字で炎上しています。遺物は土製神像片、古銭(永楽通宝)、小形模造鉄剣、毛抜状銅製品、土・陶器片等を発掘しています。
そのほか二か所から礎石群を検出しましたが、プランは不明確です。北辺の土塁の中央部から川原石を埋めた経塚状遺構一か所を発掘しています。
発掘した遺構や遺物と、地名や伝承等から修験道にかかわりの深い寺院跡と推定されています。

金鎧山古墳

金鎧山古墳の写真

 
指定 市指定史跡/1985年4月26日
所在地 中野市大字新野
所有者 松山寺

市内東南部は、上信国境の山からのびた支脈の尾根に囲まれています。金鎧山古墳も中野扇状地の扇端に近い尾根上に営まれ、比高差は70メートル程であり、下方の尾根上には小規模な古墳が2基存在します。発掘されたのは1925年4月で、松山寺住職本藤文明氏を中心に行われ、出土品は東京国立博物館に収蔵されています。古墳の規模は径17メートル、高さは東側で2.6メートル西側で1.9メートル、尾根上方には周濠の存在が想定されます。

偏平な安山岩質の石と土で築造された円墳で、積石塚古墳ではありません。発掘後すぐ調査された岩崎長思、森本六爾が注目したのは、合掌形の石室(棺)と豊富な副葬品でした。中心より南に偏して東西に主軸をもつ主体部の石室は、石棺というべき大きさで、底辺は長さ2.35メートル、幅0.64メートルの長方形で側壁石が斜立し、上部は合掌形に組合わせています。石材は白色がかった安山岩の平石で構築され、内部は赤彩されていました。

発見された遺物は、五鈴鏡、珠文鏡、勾玉、管玉、ガラス丸玉、小玉、滑石製臼玉、貝輪(腕輪)、剣、直刀、鹿角柄刀子、槍、鉄鏃、鉄斧、鋸、砥石など、馬具類では環鈴・鈴・帯金具・留金具・轡などで、土師器、須恵器の出土が知られていました。
近年、西側の墳裾から墓前祭祀に使用されたと思われる、土師器高杯や、須恵器破片が多数発見され、これは、高杯・甕・二重はそう(県下3例目)・器台などで、陶邑TK208型式併行であり、副葬品のあり方から、5世紀末頃築造の古墳と考えられています。

内堀館跡

内堀館跡の写真
土塁の写真
 
指定 県史跡/1997年8月14日
所在地 中野市大字上今井
所有者 個人

内堀館跡は約55メートル×約60メートルの方形で、西・北・東の三方に幅約10メートルの水堀が馬蹄形にめぐらされ、堀の内側の西・北に高さ約3メートル、上部幅約1.5メートルの土塁が残されています。大手には部分的に野面積みの石垣が見られますが、石垣は後世に築かれたものと思われます。このような方形単郭の形態は中世豪族居館を代表するものです。

館跡は現在、個人の宅地となっています。敷地内には母屋・門・土蔵・稲荷社などの建造物があり、いずれも江戸時代以降に建てられたものです。母屋は江戸時代後期には飯山藩主本多家が宿泊や休憩をする御本陣として利用されていました。稲荷社は屋敷神として祀られてきたものです。

高遠山古墳

高遠山古墳の写真

 
指定 県史跡/2005年3月28日
所在地 中野市大字新野
所有者 中野市ほか

高遠山古墳は、中野扇状地とそれに続く延徳田圃の水田地帯を見渡せる比高25メートルほどの尾根上にある前方後円墳です。1982年に前方後円墳として周知されました。
墳丘形態は県内最古と言われていた千曲市森将軍塚古墳(4世紀中頃)によく似た前方後円墳であり、全長は約51.2メートルです。前方部、後方部の比高差が大きく、後円部には多くの土盛りがされています。葺石、埴輪などが認められないことが外見上の特徴といえます。

後円部に設けられている二つの埋葬施設は、築造当初の状態を保っています。北側の1号埋葬部は木棺を粘土で包んだ粘土槨で、南側の2号埋葬部は石を積み上げ、木炭が詰められた特異な竪穴式石室です。
高遠山古墳の築造年代は、4世紀はじめから半ばまでの間と考えられており、善光寺平ではもっとも古い段階の前方後円墳の一つです。
※出土品については、県宝「高遠山古墳出土品」をご覧ください。

お問い合わせ

教育委員会事務局 生涯学習課 文化財係
TEL:0269-22-2111(424)

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