■作曲家 中山晋平

美しい自然が晋平メロディを育んだ
〜山があり、川があり、やさしい土の香りがあった。〜
 中山晋平は、明治20年3月22日、長野県下高井郡新野村(現在中野市大字新野)に生まれた。季節ごとに表情を変える美しい自然の中で、晋平少年はのびやかに育っていった。
 
大衆の心を素直に表すことが
晋平の歌謡の旅立ちだった
〜抱月との運命的な出会いが晋平の人生を決めた。〜
 明治38年、ふるさとを後にして東京へ旅立った。島村抱月の書生となり、東京音楽学校予科に入学。45年卒業し、大正3年「カチューシャの唄」を作曲した。松井須磨子の歌が大ヒットした。

自然を愛し、大衆を愛した晋平のやさしさと
温もりが新民謡の中ににじんでいる
〜雨情とのめぐりあいが、新民謡への出発点となった。〜
 晋平はやがて5歳年長の詩人・野口雨情と出会い、雨情の新しい童謡・民謡の創作に対する情熱に刺激を受けた。大正10年にレコード化された「船頭小唄」であり、「波浮の港」であった。
 
〜全国各地で口ずさまれる晋平の新民謡のメロディ。〜
 新民謡の作曲活動は、大正12年の「須坂小唄」に端を発したが、昭和になると、全国各地から作曲依頼が急増した。ふるさとのために作った「中野小唄」もその一つであった。

不思議だなあ。
子どもの心に帰れるリズムがある、唄がある。
〜ゆたかな個性と愛情が子どもの心を熱くつつんだ。〜
 鈴木三重吉が主宰した児童雑誌「赤い鳥」が創刊され、北原白秋や西條八十ら時代の文壇人がこぞってこれに参加した。晋平は、「小学女性」や「金の船」などに数多くの童謡曲を発表していた。雑誌「金の星」に「證城寺の狸囃子」雑誌「コドモノクニ」には「あの町この町」「鞠と殿様」などを発表。
 
〜永遠に歌い継がれる日本人の心のメロディ。〜
 昭和27年12月30日、病によりその65年の生涯を終えるまでの間に、晋平は歌謡・童謡・新民謡・社歌・校歌などさまざまな分野の名作を残した。
 そして、北原白秋・西條八十・野口雨情など、時代を画した詩人たちと共に作り上げた日本人の心の歌といえる名曲の数々は、今なお人々に愛され、口ずさまれている。

■中山晋平 年譜

明治 20年   長野県下高井郡日野村新野に父實之助、母ぞうの四男として生まれる
明治 36年   下高井郡瑞穂村柏尾小学校の代用教員となる。
明治 38年   延徳小学校の教職を辞し、島村抱月の書生となる。
明治 41年   東京音楽学校予科に入学
大正 3年   「復活」の劇中歌「カチューシャの唄」を作曲。作曲の第1号となる。
大正 6年   江南敏子と結婚。
大正 9年   「金の船」に野口雨情と童謡を掲載
大正 10年   船頭小唄を出版
大正 11年   「コドモノクニ」に童謡を掲載。浅草千束小学校を退職し、作曲に専念。
大正 12年   新民謡第1号の須坂小唄を作曲。
昭和 2年   長野県中野町の中野小唄を作曲。
昭和 3年   日本ビクター蓄音機会社と専属契約を結び、主な作品の吹き込み
昭和 4年   小説東京行進曲の映画化のため主題化を作曲
昭和 7年   丸の内音頭をはじめ、音頭ものの作曲をはじめる。
昭和 11年   妻敏子死去。
昭和 12年   喜代三(今村タネ)と結婚
昭和 14年   日本ビクター(株)相談役を委嘱される。大日本音楽著作権協会が設立し監事となる。
昭和 23年   日本音楽著作権協会会長となる。
昭和 25年   日本民謡協会理事
昭和 27年   12月すい臓炎のため永眠。逝年65歳