常設展示 中野市の自然と歴史、文化
 展示室では中野市の自然と歴史・文化をテーマにそれぞれのコーナーでわかりやすく展示しています。
 中野市の自然と歴史・文化を知って頂くために、「さまざまな地形と動植物」(自然1)、「十三崖のチョウゲンボウ繁殖地」(自然2)、「遊動から定住の生活へ」(原始時代)、「武士の台頭と戦乱の時代」(中世)、「平和な社会の到来と中野」(近世)、「新しい時代と伝統」(近代・民俗)の六つのコーナーから構成しました。
■ さまざまな地形と動植物(自然1)
■ 十三崖のチョウゲンボウ繁殖地(自然2)
■ 遊動から定住の生活へ(原始時代)
■ 武士の台頭と戦乱の時代(中世)
■ 平和な社会の到来と中野(近世)
■ 新しい時代と伝統(近代・民俗)

■ さまざまな地形と動植物
 太古の中野市は北(日本海)に向かって開く大きな海の底でした。その後、火山活動や山地の隆起によって、陸地となりました。
 中野市は山地・丘陵・盆地低地部・扇状地などさまざまな地形から成り立っています。
 そして、そのさまざまな地形がさまざまな環境をつくりあげています。その環境に北方系、日本海側系の動植物が生息し、また大きくみれば山地地形であるにも関わらず、平野部に生息する動植物が見られます。

■ 十三崖のチョウゲンボウ繁殖地
 チョウゲンボウはタカの仲間です。タカなどの猛禽類の鳥は互いに離れた場所に巣をつくります。ところが猛禽類であるチョウゲンボウが日本では集団で巣をつくります。
 十三崖はチョウゲンボウが集団で巣をつくる崖として、世界的にみても貴重な崖です。
 チョウゲンボウがなぜ集団で巣をつくるのか、なぜ日本に多いのかはよくわかっていません。1953(昭和28)年、十三崖は国の天然記念物に指定されました。

■ 遊動から定住の生活へ
 中野市は中部高地を代表する土器である栗林式土器が最初に発見された栗林遺跡や東日本ではじめて銅戈・銅鐸が発掘された柳沢遺跡などの大きな弥生時代(2,000年前)の遺跡があり、全国的に有名です。 
 また、日本列島に人類が生活を始めた頃の旧石器時代(30,000年前)の沢田鍋土遺跡、イギリス・大英博物館開催の「土偶展」に出品された縄文時代中期前半の土偶が発見されている姥ヶ沢遺跡などがあります。
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■ 武士の台頭と戦乱の時代
 平安時代の終わり頃、平氏某が中野西条郷の役人に藤原助弘という人物を任命しています。この藤原助弘がやがて中野氏を名乗るようになります。これが中野市の名前の由来となっています。中世の戦乱の時代になると高梨氏が中野地域を支配します。しかし、甲斐の武田氏が信濃に攻め入り、その勢力は中野にまで及びました。強大な武田氏をまえに、高梨氏は越後の上杉氏を頼って中野を去ります。
 やがて、武田氏は織田信長に滅ぼされてしまいます。信長の死後に上杉氏が北信濃を支配しました。それと機会に高梨氏も中野にもどります。
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■ 平和な社会の到来と中野
 戦乱の時代が終わり、将軍を頂点とする幕藩体制という政治体制ができあがります。
 いっぽう、村民による村の運営が行われるようになりました。地域での争いは実力行使から訴訟によって解決されるようになりました。
 中野は交通の要所であり、まわりに幕府領が配置されていたことから、代官陣屋が置かれました。
 江戸時代の後期には寺子屋や手習いが庶民の間に広がると同時に、富裕層を中心にさまざまな文芸活動が盛んになりました。
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■ 新しい時代と伝統
 明治の新政府は西欧の技術や文化を導入し、急速な近代化を推し進めました。
 近代の日本文化は既存の文化と新しく導入された西欧文化の間でゆれ動きながら築き上げられました。
 社会が大きく変わり、生活様式は変わりましたが、人々は古くから伝わる伝統を受け継いできました。
 また、中野市ゆかりの人々もさまざまな分野で活躍しました。
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博物館概要

 中野市立博物館
 長野県中野市片塩1221
 北信濃ふるさとの森
      文化公園内

 TEL0269-22-2005
 FAX0269-22-2005
 休館日:火曜日
   (祝日は開館)

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